彭虎討伐
以前甘寧伝と凌統伝を元に年表を作成したけれど、すっかり忘れていることがあった。
はじめに
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書十 -> 董襲傳
鄱陽賊彭虎等衆數萬人,襲與凌統、步隲、蔣欽各別分討。襲所向輒破,虎等望見旌旗,便散走,旬日盡平,拜威越校尉,遷偏將軍。
凌統、鄱陽であった反乱の討伐に参加していた…つい見逃していたのだ…なぜ気づかなかったんだろう?ショック。
さて、この反乱の討伐メンバーは董襲・凌統・蒋欽・歩隲だった。
でもこの反乱がいつあったのかはよくわかっていない。
今回はこれがいつ頃あったのかという見当をつけていくことが目的だ。
キーワードは、董襲・鄱陽・蒋欽・徐盛 かな…ざっくりと…。
鄱陽
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書二 -> 吳主傳
十五年,分豫章為鄱陽郡
まず場所。
呉主伝(孫権の話が載ってる)によると、鄱陽というのは孫権が呉でアタマを張っていた時代に成立した地名であり、豫章を分割してできた場所だそう。
明確な成立年については十五とある。建安十五年のこと。つまり西暦でいうと210年。
短絡的に、鄱陽で反乱があったんだったら、地名がついた210年より後になるのでは…と考えていたがちょっと違うっぽい。
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書二 -> 吳主傳
八年,權西伐黃祖,破其舟軍,惟城未克,而山寇復動。還過豫章,使呂範平鄱陽、會稽,程普討樂安,太史慈領海昏,韓當、周泰、呂蒙等為劇縣令長。
これは先ほどと出典は同じ呉主伝の記述。
八年―建安八年すなわち203年、黄祖討伐で凌操が死んだ年。
呂範を鄱陽に派遣して不服住民の平定をさせていました。
当時なかった地名でも普通に書いちゃうのか~!
ほかにも同様な例がたくさんあるのかもしれないけど、私は初めて知った。トラップだな。
そんなこんなで、210年以降で確定だというアテはすごい勢いで外れた。
蒋欽の動向
蒋欽伝にも彭虎討伐をしたという明確な記述は特にない。
ただ、記録してある限り、この人は2回ほど豫章へと赴いていた。
1度目は孫策と各地を転戦して、平定を行っていたとき。
2度目は、宣城に駐屯していたときに、豫章の不服住民を討伐するために遠征をしたときだ。
今度は時期的に考えても、遠征先を地理的に考えても、この記述がそのまま彭虎討伐の話と重なる可能性はあると思った。
そこでまず、この蒋欽の遠征が彭虎討伐であったということを前提にするという指針を固め、彼がいつ宣城に駐屯していたのかを考えることにした。
徐盛の動向
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書十 -> 蔣欽傳
初,欽屯宣城,甞討豫章賊。蕪湖令徐盛收欽屯吏,表斬之,權以欽在遠不許,盛由是自嫌於欽。
蒋欽の駐屯していた宣城というのは、豫章郡からかなり離れている。そこで、遠征中は留守に何某かの役人を置いたようだ。
ところが宣城の隣にある蕪湖の県令をしていた徐盛が、その役人を捕え、上表して斬刑にさせようとした。
しかし孫権は、蒋欽が遠征中であるの理由にそれを認めなかった。徐盛はこのことで蒋欽により報復されたりするのではと恐れた。
蒋欽の遠征中、徐盛は蕪湖の県令をしていたようだ。では、それはいつの話だろう?
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書十 -> 徐盛傳
孫權統事,以為別部司馬,授兵五百人,守柴桑長,拒黃祖。祖子射,甞率數千人下攻盛。盛時吏士不滿二百,與相拒擊,傷射吏士千餘人。已乃開門出戰,大破之。射遂絕迹不復為寇。權以為校尉、蕪湖令。
黄射(黄祖の息子)が攻めてきたときに、柴桑県の長の任にあたりつつ、その軍勢を打ち破った徐盛。この功績から蕪湖の県令になっていた。
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書九 -> 周瑜傳
十一年,督孫瑜等討麻、保二屯,梟其渠帥,囚俘萬餘口,還備官亭。江夏太守黃祖遣將鄧龍將兵數千人入柴桑,瑜追討擊,生虜龍送吳。
周瑜伝のこの個所の記述が徐盛伝の黄射を防いだ話と合致するならば、建安十一年、つまり206年以降に徐盛が蕪湖の県令になっていたことがわかる。
まとめ(?)と妄想
蒋欽の遠征が彭虎討伐であったということを前提にするならば、この彭虎討伐は少なくとも206年以降であることがわかった。
で、いつまでの間?というとちょっとここからは特定要素が乏しい気がする。
- 中國哲學書電子化計劃 / 漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書十 -> 徐盛傳
復討臨城南阿山賊有功,徙中郎將,督校兵。
先に上げた徐盛伝の記述には続いて、こんな文章がある。
(宣城の)臨城南辺の山賊を討伐し、中郎将になって、兵士の監督や選抜をした。
ちくま正史では「復」が「ひきつづいて」と訳されていたので、もう以下はそこから押し広げた妄想にすぎないんだけど…
もしこれがひきつづいて…続けざまに、という意味だととると、蕪湖の県令になってすぐの話とも捉えられるかなと思った。
そうなるとなんだか徐盛のすさまじいまでの勢いを感じる…。
206年~207年の間くらいに、比較的早い段階でお隣さん(宣城)の蒋欽が遠征することになった。
留守の間に宣城周辺で山越が蜂起し、近辺にいた武将である徐盛が打って出た。ここで功績を得る。
ところが宣城での留守を守っていた役人を斬らねばならない事態が発生する。
上表してはみるものの、そのとき役人の上官である蒋欽がいないのを理由に処刑の許可が下りなかった。
…ただ、董襲伝によると彭虎の討伐は10日ほどで完了したそうだ。
蒋欽が宣城を行き来する往復の時間を考えても、山越の蜂起するタイミングがよすぎるし、余りにも徐盛が有能すぎるように思う。
有能だと思うけどね…。
2016.6.29追記 いろいろ調べていたら、豫章、とくに鄱陽のあたりは、もうずっと昔から賊が叩いても叩いても出てくる要注意エリアだったんですね… しかし記録に残ってない出陣があったかもと思い始めると手に負えなくなるので、妄想しかできてないけど、ここまで。