関羽瀬と甘寧塁
※例によって精読はしていません。
《甘寧傳》 甘寧……後隨魯肅鎮益陽,拒關羽。羽號有三萬人,自擇選銳士五千人,投縣上流十餘里淺瀨,云欲夜涉渡。肅與諸將議。寧時有三百兵,乃曰:「可復以五百人益吾,吾往對之,保羽聞吾欬唾,不敢涉水,涉水即是吾禽。」肅便選千兵益寧,寧乃夜往。羽聞之,住不渡,而結柴營,今遂名此處為關羽瀨。
或說甘寧誇口關羽聽見他吐口水的聲音,便不敢涉水進軍,該地怎會得名關羽瀨?應該是甘寧瀨。其實不用爭這名,關羽屯兵資水北岸得名關羽瀨;甘寧築城資水南岸獲稱甘寧壘。
甘寧が関羽を退けたという活躍を示したはずの逸話のはずなのに、なんでその地名に関羽瀬って名前がついてるの?
という誰もが持つであろうギモンに答えが出る記事です。
関羽が軍を駐屯させた資水の北岸を関羽瀬と呼び、甘寧が資水の南岸を得て築城したところを甘寧塁と呼んでいたみたいですね。
甘寧の名が地名としてしっかりと刻まれていた…。ちくまの正史を読み返すたびなぜ関羽の名を…!?と悶々としていたので、いち甘寧ファンとして非常に嬉しいです!
リンク先では甘寧塁に関わる後代の歴史についても詳述されています。
- 中國哲學書電子化計劃 / 維基 -> 大清一統志 -> 卷二百七十六
甘寧故壘在益陽縣南一里又名夜月臺水經注闗
こちらにも甘寧故塁として名前が登場しています。